Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

人間の世界

人間は万物の尺度であるって言う時、それは「人間にとってあるものがあり、ないものはないものとして」あるという事なんだ。それに加えて「すべては感覚として現れているに過ぎない」と言うのであれば、それは「それが人間にとってのすべて」という事で、結局それは「人間にとってあるものがあり、ないものはない」ものとしてあるだけになる。

それはつまり、それが「人間の世界」という事なんだ

続きを読む

エクストリーム懐疑主義への批判。

ドグマとは「考え」の事であり、スケプティスとは「考察」の事であったが、それぞれの契機を経て、その意味は「独断」と「懐疑」へと変容していった。同様に、懐疑主義も元は「現れに従って生きる者」であったのだが、そのままであり続けることはできず、やがて「すべてを疑う者」へと変貌していった*1

*1:金山弥平「古代懐疑主義」『哲学の歴史2』p.184-208、中央公論社、2008

続きを読む

とんだ災難をもたらすもの

アルケシラオス Ἀρκεσίλαος(アカデメイアの六代目学頭)は次のように言う。

すべてのことについて判断を留保する人は、選択と回避、また一般に行為を律する物差し[基準]として「理に適ったものを」用いるであろう、そしてこの基準に従って進むことによって正当に行為するであろう。

というのも、幸福は思慮を通してもたらされるのであるが、思慮は諸々の正統行為のうちにあり、そして正当行為とは、それが行われた際に、理に適った弁明を備えている行為だからである。

かくして、「理に適ったもの」に留意する人は正当に行為し、そして幸福であるだろう

 

金山弥平・金山真理子訳

セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁2』p.72西洋古典叢書、2006

 

続きを読む

この世界と我々の起源に関する神話(言われてた事)と理解の話。

ここで見ているものは、同じ問いに対する答えかたの違いである。それは今以上に知らなかった時代に言われていた事、あるいはそうした時代の表現の仕方と、その頃よりははるかに知っている時代の知見の差に起因するもので、実際にそれがどうであったのかは人間の都合には依存していない 。 

 

f:id:mazuna:20180812220720j:plain

 

教典を根拠とする年代観*1は、十七世紀中葉以降、様々な要因が絡み合って、次第に普遍から特殊への道をたどる*2

好古趣味から収蔵、展示、そして考古学へという流れがあり、芸術家たちのロマンに満ちた古代趣味は人々の古代への関心を掻き立て、古態を残す異文化との遭遇はより古い時代があったのではないかという疑念を惹起した。その後、地層についての考え方が整理されるにつれて、そこには大洪水によるグローバルな断絶などは存在せず、選択的な種の形成と、段階的な歴史の展開があるのみとなって、従来の年代観の枠組みを超えて有史以前との連なりの中で「どこまで古いのか?」その起源を問えるようになったのである*3

エビデンスに着目した流れとしては、凡そこのようなものであるが、人々の受け止め方の変化としては、十八世紀の啓蒙主義があり、それを準備した十七世紀の科学上の進展、大航海時代の世界認識の進展、市民革命による思想の自由*4があり、それに先立つ普遍世界の解体としての国民国家の成立、更にその契機となる宗教改革があった事にも思想史の流れとしては留意すべきだろう。

 

以下は、1570年頃の日本の地図*5と現在の地図*6であるが、この450年程で日本の地形に変化が生じた訳でなく、 どちらもその対象は同じ日本を指している。

f:id:mazuna:20180812212533j:plain 

f:id:mazuna:20180812212628j:plain

この変化は、伝聞と想像によるものから、実地での測量や衛星からの観測が可能となった事によるものであり、対象の変化によるものではない。

 

以上、対象と認識の関係において、認識の適切さはその対象と一致する程度による*7のであって認識のみによるのではない事を示した。また、人は知らないからといって、そこを空白にはせず、何らかの方法で間に合わせていることも明らかだろう。人は日常生活において、突き詰めて考えるほどには真/偽を気にしてはいないのである。

 

この問題は、それがどうであるかは人間に依存しないという話であるが、 他方、現実の世界は自分の視界の内に留まるものではないことをも示している。 

f:id:mazuna:20180905235433j:plain

自分の視界が「世界の全て」ではない事を知ることは、自分には見えていないものがあるかもしれない事に、留意するという事でもある。

*1:岡崎勝代『聖書 vs.世界史ーキリスト教歴史観とは何か』講談社現代新書、1996

*2:ブライアン・フェイガン著、小泉龍人訳『考古学のあゆみー古典期から未来に向けてー』p.12-13、朝倉書店、2010

*3:ibid.

*4:岡崎勝世「世界史とヨーロッパ」p117-120、講談社現代新書、2003

*5:織田武雄『古地図の世界』p.228-229、講談社、1981

*6:Google Map

*7:感覚したとおりにあるところのものが対応するからそれは偽りなきものであって、その点それは知識にそっくりである『テアイテトス』152c

万物の尺度

人間は万物の尺度である。あるものがあるということの、ないものがないということの。

これは人間にとってあるものはあり、ないものはない。人間にとってそうならばそれでよいではないかという単純な話である。少なくとも、個人がそれぞれにどう感じるかを尺度とするという話ではない*1

人は誤り、嘘をつくものもいる。目の前で他者の物を奪い、他者を傷つけることをしても、自分はしていないと言い、そのような被害の主張は、自称被害者が勝手にそのように感じて勝手に言っているだけだと主張する、加害者であることを否定する加害者もいる。だが、これらは言葉の上の話であって、実際にどうであったかは別の話である。実際の出来事は、個々の誤った認識には依存せず、適切な認識はその似姿にすぎない。

※世界に触れることはできず、すべては感覚(つまり現れ)によっているにすぎないという事は、人間にとってあるものがあり、ないものはないものとしてある、という事を言い換えたものに過ぎない。

 

 

f:id:mazuna:20180810210008j:plain

 

 

 

*1:『テアイテトス』に個々の感覚を尺度とした場合の議論がある。151e-152eでは「感覚しているところのものは、そのようなものとして各人にまたおそらくありもする」「感覚したとおりにあるところのものが対応するからそれは偽りなきものであって、その点それは知識にそっくりである」そして「何事も他と無関係に単一(あるもの)ではなく万事は運動、動き、また相互の混和からなり」「何物もいかなる時においてもあるということはないので終始なるのだ」として万物流転の話に続いている。また、161c-162aでは、各々の思いなしが各人にとって真である=つまり誤りなどというものは存在しないなら、他者から学ぶことなど何もないし、真理をめぐる議論は無用の長談義、途方もない空論になってしまうではないかと論じている。