Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

君子論<差し替え版>

君子は儒教を理解する上で重要な、一つの鍵である。一般的に君子と言えば、聖人君子と結び付けて言うように、一種の理想的な人格者を指している。そうした君子の理想的性格は、直接的には孔丘を心に映す事によっているのだろうが、そもそもを遡れば、古代氏族の首長たち、すなわち古代の貴族たちに端を発している。ここでは儒教の成立以前に遡って君子像の変遷を見てみることにする。

 

さて、君子なる語は君と子でできている。甲骨文字の研究によると、君は尹+口でできており、尹は錫杖もしくは道具、口は祭器であるという。そしてこの文字は王の臣下をさす汎称であった。また子は基本的には子供を指すが、尊称としても用いられるだけでなく、王に仕えて軍事的貢献をなす小領主たちをも指す、多義字であったという。しかしながら、甲骨文字の使われていた時代には、まだ君子と呼ばれる者は現れていない。

 

続く時代である周王朝になると、王業とそれに貢献した有力者の功績が祭器に刻まれてそのいさおしが称えられるようになる。天命によって殷の悪政を正し、殷に代わって王国を統治した周王家の正統性と、天命によってたつ王に奉仕して褒賞された功臣らのいさおしは祭器に刻印されて、その正統な子孫らによって受け継がれていった。

 

祭器に刻まれた銘文はまた、詩の発展を促した。詩は銘文を母体として発展し、その母体となった銘文は紀元前十一世紀から紀元前四世紀に及んでいる。銘文は宗廟で詠まれ、やがて文学的に詩へと発展していった。宗廟に於ける祭祀では、巫祝の扮する祖霊が主賓となって饗応され、子孫たちは祖霊を讃え、謝意を表して、その庇護の得られんことを願い、祭祀が末代まで続く事、すなわち、家が永遠に続くことを願った。詩経において君子と呼ばれた者たちとはこうした祖霊たちの事である。この君子は生前、氏族の者たちにとってもっとも身近な指導者であり、彼の王への貢献がその後の一族繁栄の基礎を築いた。故にこの君子は死後においても氏族の父祖であり、一族の象徴とも言える存在で、家という彼らの基本的な生活の枠組みと深く結びついていた。

 

銘文と書はともに周王が天命によって克殷を果たし、新たな王朝を創始した事を伝えている。このような詩や書の伝える文脈を前提とすれば、天命を奉じる王に仕え、善行をなして家を打ち建てる君子たちは、人々の手本とするに足る者たちであっただろう。君子たちが間接的に天に奉仕しているとすれば、王は直接に奉仕する者であり、新たな王が立てば旧王もまた臣として仕えることになるだろう。天意によって王が立ち、善をなすというのがこの時代の感覚であった。

 

後に、神の子、選ばれし者、陰陽の如し、至聖、玉座なき王と称えられる事になる孔丘仲尼はこの君子なる言葉、理想的な人物を表現する言葉として度々用いている。儒家聖典である論語によれば、君子は君子の手本であるといい、悪い見本としての小人の対極に位置付けられている。 つまり君子とはちゃんとした者の範であり、手本となりうるべき人物の事である。孔丘はまた、詩や書に範を求めたといい、少なくとも論語によれば、大本の範となる古の聖王たる君子たちは天を奉じて善行に励み、天の与えたその特性に従って他の者たちの手本となっている。つまり、手本が手本を生み出していた訳である。

儒家の思想を解説した中庸によると、天の命じるところが人間本性、本性にのっとるのが人の道、それに適うよう生きられるようになるのが教えというものであるという。教えによってできるようになる者、教えがなくともできる者もいるが、できるようになればどちらも同じ事であるといい、いずれにせよ、君子なる者は、すなわち君子であるならば、他の者たちがどうであるかは関係なく、自身の問題として道に適うように努めるべき事を述べている。学ぶ者たちは聖人の教えによって導かれ、手本として人々に行動の模範を示すのである。

 

以上が、儒家の理想たる君子の姿である。天意に則り善をなすという点では同じでも、その初期においては王に仕えるその臣下たちであったあったのが、後に於いては孔丘の教えにならう儒者たちへと、君子豹変さながらに変貌を遂げた。この意味においても孔丘仲尼なる者は、儒者たちにとってはやはり玉座なき王なのであろう。

 

出典と注意点、注は後日。