Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

t=t’

Truth を求めるのが哲学(φίλοςσοφία)である以上、truth を抜きに哲学することは原理的に無理がある。

               *

 

真理は誤りを含まない完全に正しいものである。つまり真理は100%正しさの塊でできている。

この世界をつくっている事物が無数にあり、それぞれの事物に真があるとすれば、100%の正しさとはそのすべてにおいて誤りを含まないことになる。我々は、未だにこの世界の事を知り尽くしている訳ではなく、また理解している途上にある。そしてまた、我々の見知った範囲の世界の外にある、未知世界を合わせたすべて、人間には到達しえない不可視の領域にあるものも含め、それらすべてにおいて、誤りを全く含まないということが完全な100%の真であるということになる。これが人間に可能であろうか?

では、部分的、個別的な話ならどうであろうか?それならば可能であるのかもしれない。だが、全体的に見ればその他の大部分が不透明な中、そのように思いなしてもよいものだろうか?多くが明らかならばそれは妥当かもしれない。だが、不明な部分が消えることはない。つまり、部分的にでさえ100%というには曖昧な部分が残るのではないか?とするならば、人間にたどり着ける真理は不確かなのではないか?ということになる。

しかしながら、果たして人間にそのような完全な真理が必要なのだろうか?何事も100%の正しさでなければならないとすれば、我々にできることは何も残されていない事になるだろう。我々にとって必要なのは100%の正しいという保証ではなく、用を足せる程度の適切さであり、妥当性である。差し当たって必要な用を足せればそれでよいのである。

 

以上は人間の側の話であるが、今度は反対に真理の側から問題を見てみよう。勿論、自らが真実と化して見るのではなく、前節の魂を羽ばたかせて捉えるというのと同じ意味においてだが、100%正しいものがあるとすればそれはなんであろうか?そんな事が可能なものがあるとすれば、それはそれそのもの、それ自体に他ならないだろう。

t=t

((t=t)=t)=t∞ また t=t=t=t∞ =t

((w=w)=t)=t

((t=w)=w)=t)=t

すなわち、あるものはあるものとして、ないものはないものとして在るが、真にないものは俎上にすら上れない。過去にあったものはあったものとして、現にあるものはあるものとして、将来においてあろうものがあろうものとして在る。すべてにおいて正しく、無限に正しいものは唯一それのみである。

しかしながら、我々の認識はそれについての何かであってそれ自体ではないのだから、我々の認識はそれではない。我々の魂がたどり着ける限界は

t=t’ 

というような真理の似姿までである。すなわち、どこまでそれに近づけるのかという程度と、どのようにしてそれに近づくのかという方法が、実際上の問題となる。だが、それを見失っていてはそれに近づくことすら覚束ないだろう。

 

故に、対象と認識の関係にに於いて、真実に真であればその通りになり、反対に誤りであればその通りにはならない。また認識が適切であれば、その通りになるであろうし、適切でなければその通りにはならないだろう。人間の認識は人間の側の問題であって、対象の側には関係がない。自分は分からないから、知らないからといってそれが無いわけではないのだ。それは単に自分が知らないだけ、自分には分からないだけの話である。事物の真偽を決めるのは、常に対象の方であって人間の方ではなく、世界はそのありのままを人間に突き付ける。

 

古い時代の哲学が述べたように、対象となる世界の動きを適切に判断し、適切に行動する者は幸福になれるだろう。だが、実際には適切でなく、重大なあやまりがあれば、そうはならないはずだ。我々にできうる範囲ができうるのであり、それが我々にできる最善ということになるが、これをどう捉えるかは人に拠ったとしても、最善を超える善は空虚にすぎない事に変わりはなく、可能な限り適切なものを選び取ることが我々にできる最善なのである。個々の事例に於ける最善、何が理に適っているのか。如何にしてそれを知りうるのか、また、如何にしてそれを成しえるのかという方法は、次の課題になるだろう。