Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

floating world

移ろいゆく世界で生きるには何がしかの拠り所、足場となるものがいる。ある者にとってそれは、信仰であったり、家族であったり、趣味や楽しみ、あるいはカネ*1であったりもする。何を拠り所とし、何を自らの足場とするかは様々であり、それぞれであり、またどれか一つに限られるものでもないが、皆どこかにその拠り所、足場を置いてこの世界で生きている*2。対して、哲学する者の足場となるのは唯一「事実」のみである。

 

事実とは、この世界に根のある事物であり、根のない虚構に対する反対の言葉である。判断や議論の前提にしてよい物事が事実であり、また反対に前提としてはならないものが虚構である。相手に何かを伝える手段、或いは表現の手段として虚構を用いることはあっても、それら虚構を、例えばドラマを現実の出来事として扱うようにすることはできない。虚構は虚構として、事実が事実として、誤認はあるにしても、扱われるべきものである。

 

前提の誤りが結論の誤りを導くというように、事実はまず、すべての議論の基礎となる。事実を適切に認識できなければ判断を誤り、判断を誤れば、他の因果によって幸運が訪れでもしない限り、満足は得られないであろう。そしてまた、前提から適切に議論を導く道となるものが必要となるだろう。思弁は論理の展開によって、事実はその指し示すところに従って、導かれていく。前後の文脈と無関係に、或いは事実と無関係に自分の好きにしてよいのではない。

 

さて、もっとも単純な事実から出発するとして、どこにその起点を置くべきだろうか?我々がいることにか?それともすべてであるこの宇宙であろうか?以下で行われる議論は、我々が居て、世界がある。世界があって、我々がいる*3。これをその足場としている。

 

 

*1:カネは糧と呼んでも構わないが、価値の数量化、交換の手段である。従って数、物と置き換える事もできる。

*2:好みで選んでよいものもあり、それでは駄目なものもある。また、事実がどうであれ、それとは別に選択を行うこともできる。勿論、これもまたそれでは駄目なものもある。それらを前提とした上で、事実は事実なのである。哲学する者は、これらを区別して、事実となりうるものをその足場とする。しかし、この事は哲学する者が必ず真なるものを選んでいるという事を意味しない。また、数を拠り所とするものは数学するものであり、論理を拠り所とする者は論理学をするものである。

*3:世界を育成するピュシス、人間を駆動させるプシュケ。どちらか一方のみを選ぶという事は、我々のいない世界か、我々しかいない世界になる。古代の哲学は、世界を探求し、また自分自身を探求した。すべてを疑うもの、ピュシスのみを重んじるもの、プシュケのみを重んじるものがあるが、それらはいずれも本題の入り口にさえ至らない