Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

ソクラテスとは何であったのか?

彼は本を書くことを嫌ったが、その理由の通りに彼の発した言葉は扱われてその身は引き裂かれた。彼は市民たちの理解を得られず、追放か死か、いずれにせよアテナイという現にあった国家から蹴りだされてしまった。

 

しかし、彼は杯を仰ぐことによって永遠を得た。その魂はプラトンによってアテナイに留まり、彼を通じて今なおこの世界に留まっている。単に名前が知られるのみでなく、その魂が滅びることなく今に伝えられているのだ。これを不滅の魂と言わずして何というのだろうか。本を残して名を著すことにより不滅の魂を得ようとするものを彼は哂ったが、彼の場合には、その名と行いによってその存在が知られるのではなく、その魂の輝きによってその名と行いが知られるのである。

 

ゆえに、彼もまた書かれしものであったと言えるだろう。何によってかと言えば、それはパイデイアであり、それそのものと、そのようであるもの、すなわち世界との対話であろうが、そこまで言うのはプラトンに引き付けられすぎているであろうか?だが自身と環境の相互作用がその人なりを作ると言うのならあながち間違いではないように思うのだ。

 

付記

現代思想に、ロゴス中心主義を批判してロゴスを中心に論じるものがあるが、ソクラテスにおいて話された言葉と書かれた言葉は結局のところ、同じ結末を辿った。プラトンらにおける議論というのは、ロゴスではなくその向こうにある見るべきものが見えていないという事への批判であり、それ見えていない者にそれを見せることは可能なのかという議論だ。

 

言葉から事実ではなく、事実から言葉を

οὐ γὰρ ἕνεκα τῶν λόγων τὰ πράγματα συντελεῖσθαι, ἀλλ' ἕνεκα τῶν πραγμάτων τοὺς λόγους. *1  

                                                            Διογένης Λαέρτιος

Βίοι καὶ γνῶμαι τῶν ἐν φιλοσοφίᾳ εὐδοκιμησάντων

                                                                   ΜΥΣΩΝ108  

 

 

プラトンが「人間とは二本足の、羽のない動物である」と定義して、好評をえていたとき、彼は雄鳥の羽をむしりとって、それをさげてプラトンの教室に入って行き、「これがプラトンの言う人間だ」と言った。

ー『ギリシア哲学者列伝』第6巻2章(シノペの)ディオゲネス

 

あたりを見渡せば人間に囲まれていたはずだが、文字や言葉にすることによって彼らはそれを見失う。 プラトンの定義は人間を見ていれば察しが付くが、シノペのディオゲネスは言葉だけを見て、羽をむしりとった雄鳥をそれだと言った。

 

 

 

 

floating world

移ろいゆく世界で生きるには何がしかの拠り所、足場となるものがいる。ある者にとってそれは、信仰であったり、家族であったり、趣味や楽しみ、あるいはカネ*1であったりもする。何を拠り所とし、何を自らの足場とするかは様々であり、それぞれであり、またどれか一つに限られるものでもないが、皆どこかにその拠り所、足場を置いてこの世界で生きている*2。対して、哲学する者の足場となるのは唯一「事実」のみである。

 

事実とは、この世界に根のある事物であり、根のない虚構に対する反対の言葉である。判断や議論の前提にしてよい物事が事実であり、また反対に前提としてはならないものが虚構である。相手に何かを伝える手段、或いは表現の手段として虚構を用いることはあっても、それら虚構を、例えばドラマを現実の出来事として扱うようにすることはできない。虚構は虚構として、事実が事実として、誤認はあるにしても、扱われるべきものである。

 

前提の誤りが結論の誤りを導くというように、事実はまず、すべての議論の基礎となる。事実を適切に認識できなければ判断を誤り、判断を誤れば、他の因果によって幸運が訪れでもしない限り、満足は得られないであろう。そしてまた、前提から適切に議論を導く道となるものが必要となるだろう。思弁は論理の展開によって、事実はその指し示すところに従って、導かれていく。前後の文脈と無関係に、或いは事実と無関係に自分の好きにしてよいのではない。

 

さて、もっとも単純な事実から出発するとして、どこにその起点を置くべきだろうか?我々がいることにか?それともすべてであるこの宇宙であろうか?以下で行われる議論は、我々が居て、世界がある。世界があって、我々がいる*3。これをその足場としている。

 

 

*1:カネは糧と呼んでも構わないが、価値の数量化、交換の手段である。従って数、物と置き換える事もできる。

*2:好みで選んでよいものもあり、それでは駄目なものもある。また、事実がどうであれ、それとは別に選択を行うこともできる。勿論、これもまたそれでは駄目なものもある。それらを前提とした上で、事実は事実なのである。哲学する者は、これらを区別して、事実となりうるものをその足場とする。しかし、この事は哲学する者が必ず真なるものを選んでいるという事を意味しない。また、数を拠り所とするものは数学するものであり、論理を拠り所とする者は論理学をするものである。

*3:世界を育成するピュシス、人間を駆動させるプシュケ。どちらか一方のみを選ぶという事は、我々のいない世界か、我々しかいない世界になる。古代の哲学は、世界を探求し、また自分自身を探求した。すべてを疑うもの、ピュシスのみを重んじるもの、プシュケのみを重んじるものがあるが、それらはいずれも本題の入り口にさえ至らない

t=t’

Truth を求めるのが哲学(φίλοςσοφία)である以上、truth を抜きに哲学することは原理的に無理がある。

               *

 

真理は誤りを含まない完全に正しいものである。つまり真理は100%正しさの塊でできている。

この世界をつくっている事物が無数にあり、それぞれの事物に真があるとすれば、100%の正しさとはそのすべてにおいて誤りを含まないことになる。我々は、未だにこの世界の事を知り尽くしている訳ではなく、また理解している途上にある。そしてまた、我々の見知った範囲の世界の外にある、未知世界を合わせたすべて、人間には到達しえない不可視の領域にあるものも含め、それらすべてにおいて、誤りを全く含まないということが完全な100%の真であるということになる。これが人間に可能であろうか?

では、部分的、個別的な話ならどうであろうか?それならば可能であるのかもしれない。だが、全体的に見ればその他の大部分が不透明な中、そのように思いなしてもよいものだろうか?多くが明らかならばそれは妥当かもしれない。だが、不明な部分が消えることはない。つまり、部分的にでさえ100%というには曖昧な部分が残るのではないか?とするならば、人間にたどり着ける真理は不確かなのではないか?ということになる。

しかしながら、果たして人間にそのような完全な真理が必要なのだろうか?何事も100%の正しさでなければならないとすれば、我々にできることは何も残されていない事になるだろう。我々にとって必要なのは100%の正しいという保証ではなく、用を足せる程度の適切さであり、妥当性である。差し当たって必要な用を足せればそれでよいのである。

 

以上は人間の側の話であるが、今度は反対に真理の側から問題を見てみよう。勿論、自らが真実と化して見るのではなく、前節の魂を羽ばたかせて捉えるというのと同じ意味においてだが、100%正しいものがあるとすればそれはなんであろうか?そんな事が可能なものがあるとすれば、それはそれそのもの、それ自体に他ならないだろう。

t=t

((t=t)=t)=t∞ また t=t=t=t∞ =t

((w=w)=t)=t

((t=w)=w)=t)=t

すなわち、あるものはあるものとして、ないものはないものとして在るが、真にないものは俎上にすら上れない。過去にあったものはあったものとして、現にあるものはあるものとして、将来においてあろうものがあろうものとして在る。すべてにおいて正しく、無限に正しいものは唯一それのみである。

しかしながら、我々の認識はそれについての何かであってそれ自体ではないのだから、我々の認識はそれではない。我々の魂がたどり着ける限界は

t=t’ 

というような真理の似姿までである。すなわち、どこまでそれに近づけるのかという程度と、どのようにしてそれに近づくのかという方法が、実際上の問題となる。だが、それを見失っていてはそれに近づくことすら覚束ないだろう。

 

故に、対象と認識の関係にに於いて、真実に真であればその通りになり、反対に誤りであればその通りにはならない。また認識が適切であれば、その通りになるであろうし、適切でなければその通りにはならないだろう。人間の認識は人間の側の問題であって、対象の側には関係がない。自分は分からないから、知らないからといってそれが無いわけではないのだ。それは単に自分が知らないだけ、自分には分からないだけの話である。事物の真偽を決めるのは、常に対象の方であって人間の方ではなく、世界はそのありのままを人間に突き付ける。

 

古い時代の哲学が述べたように、対象となる世界の動きを適切に判断し、適切に行動する者は幸福になれるだろう。だが、実際には適切でなく、重大なあやまりがあれば、そうはならないはずだ。我々にできうる範囲ができうるのであり、それが我々にできる最善ということになるが、これをどう捉えるかは人に拠ったとしても、最善を超える善は空虚にすぎない事に変わりはなく、可能な限り適切なものを選び取ることが我々にできる最善なのである。個々の事例に於ける最善、何が理に適っているのか。如何にしてそれを知りうるのか、また、如何にしてそれを成しえるのかという方法は、次の課題になるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界は何からできている?

A. thing. 

世界は事物から出来ている。

そのもっとも小さいものはそれ以上分割することはできず、

そのもっとも大きいものは他のすべてのものをその内に含む。

原子がそれ以上分割できないのではない。それ以上分割できないものがアトムであったのだ。すべての外には何も無く、すべてはすべての内に在る。在るものは在るものとして、無いものは無いものとして。

その数は在るだけ在って、増えれば増え、減れば減る。その定かではない数は無限に等しい。

 

人間にとって見知った世の区切りを世界と呼ぶのなら、知らない世界をも合わせたすべてはそれらよりも大きく最大であり、ひとつとして在るものになる。

 

この一つにして全てであり、全てであり一つであるところのものは、その内に広がりを持ち、また変化を持つ。宇とは広がりをいい、宙とは変化をいう。空間と時間。万物は流転し、uni+vertere、如何なる名で呼ぼうとも同じ一のところのものである事に変わりはない。

 

我々人間もそのすべての内に在り、その外に出ることは叶わない。だが唯一人間という存在のみがその魂を羽ばたかせて、このすべてを視界に捉えることができるのだ。

 

難しい話は私が分からないので出来ません。

えーと、物理の話じゃねぇって言ってるのに、どうしても物から離れられない人がいるもので面倒くせーと思う事この上ないんですが、物理即物の地平に留まっている限り、こうした世界の話は見えてきません。

 

また反対に、哲学にとって論理学や数学は手段でしかないって事を忘れてるひともいます。もしそれらが議論の本質であるのなら哲学はそちら名前で呼ばれてるか、或いは逆にそれらが哲学の名前で呼ばれている事でしょう。哲学者を称した者たちは、別に論理や数学を極めたかった訳じゃなく、単にこの世界が不思議で仕方なく、どうやったら知ることができるのか、その手段としてそれらを用いただけです。

 

即物の世界を知りたいだけならそれでも構わないんでしょうけれど、世界はそれだけにとどまりません。おまけに、人間は間違える生き物です。その間違える生き物のやってきた事、してる事、間に合わせで何とかしてきた事って、複雑な論理学的真や高度な数学的正解で紡ぎだせるもんなんでしょうかね?

 

高度に発達し複雑化した社会では勿論、必要でしょうが、そんなにも複雑なものが最初から必要だったなら人類ここまで来られてないと思うんです。最初はとっても簡単で、誤りや間に合わせの想定をも含む、シンプルな発想から始まってるんじゃないかなと思います。

 

高度で複雑なものはやってる人は沢山いますし、私までそうしたものをやる必要は特にないと思っています。だって、話聞いても全然分かりませんし、私が関心を持つようなものもその中にはありませんから。私はただ、私にもできる単純なやり方で、私を惹きつけてやまないそこに在るものを、それが真実そうであるのかそれとも違うのか、それは私には分かりませんが、書き記しておきたいと思うのです。

 

 

何がどうであれば正しいのか? の思い出

学生時代、みんな好き勝手に言ってるのを見て不思議に思っていました。何故そんなにもみんな自信満々にとんちんかんな事を言うのだろうと。そしてまた、誰も私と同じような事を言っているのがいなかったので、自分がまともに思えてもそれは自分の感覚ですし、そう思えるだけでただの間違いなのではないかと常々疑っていました。

指導教授はよくよく考えて自分でえらびましたし、世の中と人間性というものに通暁したすぐれた実務畑の戦略家でした。当然ながら上のとんちんかんには含まれていません。記憶違いでなければ、その教授に、これだけやったんだという自負が信念を作る、オマエはそれが足らん!というような事を言われたように思うのですが、そうした事に関しては私にはその答えでは不十分でした。またそういわれると今度は、そういう自信はまったくない→足りてないできてない(実際、足りてないしできてない)→駄目な俺(はい、確定)とますますドツボにハマるはめに。なんて純情な学生さんだったんでしょうね。自分で言うのもなんですが。

また、理屈や価値観からしかモノを言わない教授もおりまして、度々お互いにあまり好意的ではない議論になったのですが、あちらの方がキャリアも年の功もありますからたびたび詰まらされてしまいます。それでさも自分が正しいみたいな顔するもんですから、何でこんな生意気な学生を黙らせただけで何が正しいかが決まるのだ?そんな訳ないだろう!と、また考えこむ羽目に陥りました。

その後、学生じゃなくなってからもこの問題を引きずっていました。正しいってナニ?何がどうであれば正しいの?そんな事ばかりずっと考えていました。ところがある日、唐突にそれが来たんです。寝てる時でしたが、全身を貫くような衝撃とともに「あ」っという感じに。錯覚でしょうが、衝撃が全身を貫いて地面に駆け抜けていったような感覚で、その時気が付いたのが「すべてが分かれば何が正しいのか分かる=分からないものは何もない」という事でした。この人、絶対おかしいし、頭悪いでしょ?

そして、「でも、すべてって?どうしたらそんな事できるの?」というのが次の疑問です。結論は割と簡単で「(一つでも間に合わないのに全部なんて)俺には無理!」という事がすぐに理解できました。けれど、この事が分かった事によって、全部を知ることは無理でもすべてが何だかは分かる、一つでも間に合わないが、それを分かろうとすることはできる。問題は方法だ、という事になりました。そこからがまた長いんですけれどもね。また、やりかたが分かったところで、それができてるどうかは別問題ですし。

 

 

 

 

 

君子論<差し替え版>

君子は儒教を理解する上で重要な、一つの鍵である。一般的に君子と言えば、聖人君子と結び付けて言うように、一種の理想的な人格者を指している。そうした君子の理想的性格は、直接的には孔丘を心に映す事によっているのだろうが、そもそもを遡れば、古代氏族の首長たち、すなわち古代の貴族たちに端を発している。ここでは儒教の成立以前に遡って君子像の変遷を見てみることにする。

 

さて、君子なる語は君と子でできている。甲骨文字の研究によると、君は尹+口でできており、尹は錫杖もしくは道具、口は祭器であるという。そしてこの文字は王の臣下をさす汎称であった。また子は基本的には子供を指すが、尊称としても用いられるだけでなく、王に仕えて軍事的貢献をなす小領主たちをも指す、多義字であったという。しかしながら、甲骨文字の使われていた時代には、まだ君子と呼ばれる者は現れていない。

 

続く時代である周王朝になると、王業とそれに貢献した有力者の功績が祭器に刻まれてそのいさおしが称えられるようになる。天命によって殷の悪政を正し、殷に代わって王国を統治した周王家の正統性と、天命によってたつ王に奉仕して褒賞された功臣らのいさおしは祭器に刻印されて、その正統な子孫らによって受け継がれていった。

 

祭器に刻まれた銘文はまた、詩の発展を促した。詩は銘文を母体として発展し、その母体となった銘文は紀元前十一世紀から紀元前四世紀に及んでいる。銘文は宗廟で詠まれ、やがて文学的に詩へと発展していった。宗廟に於ける祭祀では、巫祝の扮する祖霊が主賓となって饗応され、子孫たちは祖霊を讃え、謝意を表して、その庇護の得られんことを願い、祭祀が末代まで続く事、すなわち、家が永遠に続くことを願った。詩経において君子と呼ばれた者たちとはこうした祖霊たちの事である。この君子は生前、氏族の者たちにとってもっとも身近な指導者であり、彼の王への貢献がその後の一族繁栄の基礎を築いた。故にこの君子は死後においても氏族の父祖であり、一族の象徴とも言える存在で、家という彼らの基本的な生活の枠組みと深く結びついていた。

 

銘文と書はともに周王が天命によって克殷を果たし、新たな王朝を創始した事を伝えている。このような詩や書の伝える文脈を前提とすれば、天命を奉じる王に仕え、善行をなして家を打ち建てる君子たちは、人々の手本とするに足る者たちであっただろう。君子たちが間接的に天に奉仕しているとすれば、王は直接に奉仕する者であり、新たな王が立てば旧王もまた臣として仕えることになるだろう。天意によって王が立ち、善をなすというのがこの時代の感覚であった。

 

後に、神の子、選ばれし者、陰陽の如し、至聖、玉座なき王と称えられる事になる孔丘仲尼はこの君子なる言葉、理想的な人物を表現する言葉として度々用いている。儒家聖典である論語によれば、君子は君子の手本であるといい、悪い見本としての小人の対極に位置付けられている。 つまり君子とはちゃんとした者の範であり、手本となりうるべき人物の事である。孔丘はまた、詩や書に範を求めたといい、少なくとも論語によれば、大本の範となる古の聖王たる君子たちは天を奉じて善行に励み、天の与えたその特性に従って他の者たちの手本となっている。つまり、手本が手本を生み出していた訳である。

儒家の思想を解説した中庸によると、天の命じるところが人間本性、本性にのっとるのが人の道、それに適うよう生きられるようになるのが教えというものであるという。教えによってできるようになる者、教えがなくともできる者もいるが、できるようになればどちらも同じ事であるといい、いずれにせよ、君子なる者は、すなわち君子であるならば、他の者たちがどうであるかは関係なく、自身の問題として道に適うように努めるべき事を述べている。学ぶ者たちは聖人の教えによって導かれ、手本として人々に行動の模範を示すのである。

 

以上が、儒家の理想たる君子の姿である。天意に則り善をなすという点では同じでも、その初期においては王に仕えるその臣下たちであったあったのが、後に於いては孔丘の教えにならう儒者たちへと、君子豹変さながらに変貌を遂げた。この意味においても孔丘仲尼なる者は、儒者たちにとってはやはり玉座なき王なのであろう。

 

出典と注意点、注は後日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロタラゴスって何ですか?39

プロタゴラスは、部分をなすものがいくつかある中、そのどれひとつとして他と同じようなものはなくどれも独自のものであると言っていた。そして、それら部分は互いに近しいものであるが、一つだけ異なったものがあるとも述べた。39(359-360)

勇気ある者は突き進む。臆病な者はそうではない。c

 

だが、怖くなければ誰でも同じように立ち向かえるのでは?

 

勇気ある者は立派であり、立派であればそれは善いことであり、醜くなければ立派と言える。一般に、勇気あるものは恐れたとして醜くなく、やけになったとしても醜くはない。E360

 

ならば醜さは、愚かさと無知によるのではないだろうか?というのも、臆病を臆病たらしめるのは、何が恐ろしいかというという事についての無知であり、してみると、恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵こそが勇気であるという事になるだろうから。bc

 

では、もっとも無知でありながら勇気だけは誰にも負けないという者がいるだろうか?e

 

ここは言葉の入れ替えしてるだけなのであまり面白くない。

 

To 40(361)

 

Πρωταγόρας, Protagoras: アプデラのプロタゴラスB.E.5Cの人。「人間は万物の定規である。あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの」の言葉で知られるソフィスト。 "Man is the measure of all things: of the things that are, that they are, of the things that are not, that they are not." πάντων χρημάτων μέτρον ἐστὶν ἄνθρωπος, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστιν, τῶν δὲ οὐκ ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν.  Plato's Theaetetus at 152a  from Wikipedia Protagoras.

プロタラゴスって何ですか?38

いろいろの名称を区別して使う事は、どうか勘弁して下さい。どんな風によぶのがお気に召すにせよ、ただ私の意図だけを汲んで答えてくださいませんか。38(358)

議論が噛み合わない時、同じ言葉を使いながら違うモノの事を言っている事がある。議論を成り立たせるためには、少なくとも議論に参加する当事者が同じモノを見ている必要がある。これが言葉から物事を見るのではなく、物事から言葉を見よという事だが、ここで述べられている事もこの事だろう。

無知とは重大な事柄について誤った考え方をもち、誤りを犯すことをいうのではないでしょうか?c

そうすると(無知でなければ)悪い方へ進んで赴くような者は誰もいないでしょう。悪い方へ向かおうとするようなことはもともと人間の本性の中にはないのではありますまいか?小さい悪い(まだマシな選択肢)を選べるのに、大きな悪い(最悪の選択肢)をえらぶ者はいないのでは?。d

あなた方が〇〇と呼ぶものは、私が〇〇と呼んでいるものと同じでしょうか?

言葉ではなく対象を見ているのが分かる。

 

ならば悪くない方へいけるのに、悪い方へ向かおうとするものがいるというのはあり得ないでしょう(分かっていないのでなければ)。

 

 

to 39(359)

 

Πρωταγόρας, Protagoras: アプデラのプロタゴラスB.E.5Cの人。「人間は万物の定規である。あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの」の言葉で知られるソフィスト。 "Man is the measure of all things: of the things that are, that they are, of the things that are not, that they are not." πάντων χρημάτων μέτρον ἐστὶν ἄνθρωπος, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστιν, τῶν δὲ οὐκ ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν.  Plato's Theaetetus at 152a  from Wikipedia Protagoras.

 

 

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