Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

論語中の三代

 

論語に夏・殷・周をいうものは10条ある*1*2

 

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章番は金谷本、加地本ともに同じ。 商は八佾08、先進16、顔淵05にあるがいずれも卜商子夏の事であり、語は大邑商を殷としか呼ばない。為政14と雍也04の周は「周而不比」「周急不繼富」であって周王朝を云うものではなく、八佾14は二代に比較した周を云い、堯曰は堯に始まって周に至る流れを云うものとなっている。微子01は殷に三人の立派な人がいたと云うのみであって、いずれも三代の流れ、連なり、比較しての話しかしていない。

 

孔丘らが物事を考えるにあたって、そもそもを振り返る時、周の前である殷、遡って夏を云い、三代の始まりにその拠るべき原理をおいて三人の聖王の事を云う。しかしながら、そしてまた当然ながら、彼らは元より歴史学者ではないのだから、過去の事実を探求して謂っているのではない。彼らはただ、彼らに出来うる範囲で、自分たちの取るべき道を示そうとし、なんとかそれを説明しようとしただけだろう。

 

彼らが、それが天意であると謂い、昔からそうであると謂うのは、そういうものなのだと言っている事にほかならず、話の落し所だとか、物事の落ち着く処を、それが見えない者にどう納得させるのかという難題は、現代に限らず、いつの時代にも骨の折れる話であったはずだが、それを三代の直道だとか天意に適うと謂って諭し、倣わせるのが、彼らのやり方だったのだろう。

 

 

 

 

彼奴も亦これを病めり、と言うべきか。 

 

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*1:金谷治訳注『論語岩波文庫、1979

*2:加地伸行全訳注『論語‐増補版‐』講談社学術文庫、2017