Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

論語中の書

 

論語中に書と云うものは5条ある。

 

・霊公06 「子張書諸紳」

・憲問42 「書云、高宗諒陰三年不言」(服喪三年の条)

・先進25 「何必讀書然後爲學」(孔丘が書に拠らない者を嫌った条)

・述而17 「所雅言詩書執禮皆雅言也」

・為政21 「書云孝乎惟孝友于兄弟施於有政」

 

その内訳は、書き込みをいうもの1件、書の伝えるところをいうもの2件、書に触れるもの2件となるだろうか。

為政21は書の君陳篇に似た言葉があるが後世の偽作であるといい、施於有政も書からの引用とみるかで分かれるという*1。「君陳は礼記にはじめて引かれているもので、後世の偽書である」といい、また「「高宗諒陰」も、後の偽書である「悦命」に見える語である」という*2。中国古代史研究の最前線によると咸有一徳篇と説命篇は「やはり偽作であることが確定したという認識になっている*3」そうだ。

 

※元は周書33の「三年不言」であったのが、孔丘の正統解釈によって服喪三年の古例(一人に留まらない⇒皆やっていた⇒昔からの慣わしである)となり、それを受けて商書17の「亮陰三祀」が出来上がったという話らしい。

・商書17、高宗と宰相傳説のこと(悦命上中下)<抄>「王宅憂亮陰三祀毀免喪其惟弗言」*4

・周書33、逸楽を戒める(無逸)「乃或亮陰三年不言、其惟不言、言乃雍」*5 

 

書に根拠を求めることができない例として、孔丘による季子論難の根拠となった七廟説もまた服喪三年同様であるという*6*7

また、書に云うところと他史料では齟齬が見える例としては、武王の弟たちが旦を疑って蜂起したという三監の乱*8 がある。

 

書はまた虞書夏書を載せ、堯舜禹の説話を伝えるが、『孔子伝』p.102-103に、古聖王の説話に神話などを改変して加えたもので、その物語は孟子の頃に文献化が試みられたものだろうという 。

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黄帝(こうてい)とは - コトバンクより抜粋。

書にも語にも黄帝の話は出てこないが、「皇皇たる后帝」なるものが堯曰1にある。この后帝は上帝だとか天帝と訳すのが通例のようである。后はキミ=君で君主的な意味合いかと思うが、君は元々は最上位者に仕える者たちで、上から見れば下に過ぎないが、下から見て上、末端から見れば自分の属する指揮系統の最上位者というような立場にあたる者である。堯曰は語中でも随分と趣の違う一篇だが、この后が、仕える者ではなく仕えられる者としての面が強調されたものだとすれば、やはり書かれた時期が異なって、それが反映されたということになるのだろうか。

 

詩・書に学べとは謂うものの、その内容は 伝説ばかりである。してみると、詩に学ぶとは人々に謳われるものを承け、書に学ぶとは人々に伝わるものを承けるという事であり、詩・書に学ぶ人々とは、そういうものと伝えられ、人々に言われてる話をもとにして物事を考えていた者たちだと言えるだろう*9

 

*1:金谷治訳注『論語』p.36、

*2:白川静孔子伝』p99、服喪三年と諒陰三年については75-76、100-101に記載がある

*3:佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』p.271、星海社、2018

*4:野村茂夫『書経』p119、明徳出版社、1974

*5:野村茂夫『書経』p211、明徳出版社、1974

*6:白川静孔子伝』p.101-102、中公文庫、2013

*7:、金分に見える礼制と文献に見えるそれの違いについて、鼎制・爵制・官制などの面から見た解説が、佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』p.124-134、星海社、2018、にある。

*8:佐藤信弥『周ー理想化された古代王朝』p.35-39、中公新書、2016

*9:神話から哲学への展開が生じる前の段階という事。言われてる事 myth に一家言はあっても、本当はどうであるのかとか、どうであったかという事についての探求心が彼らにはない。