論語における天と性
論語における天の扱いは、
公冶長13に「子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性與天道、不可得而聞也已矣」とあり、陽貨19に「曰、予欲無言。子貢曰、子如不言、則小子何述焉、子曰、天何言哉、四時行焉、百物生焉、天何言哉」とあって*1、
端木賜は聞く事ができなかったと云い、 孔丘は〈言わなくても分かるでしょ?〉天がもの言わずとも四季はめぐり、万物は生じているのだ〈から〉と云う。
言わずとも見て学び、それに倣おうか?といったところだろうか。
語には天を謂うところがそこかしこにあって、孔丘の視界に天が入っていなかったとは到底思えない。
端木賜は先進3に「言語宰我子貢」とあり、文字通りに言葉では教えてもらえなかったという事か、あるいは文字論理でなくては理解に難儀する類の者であったのかも知れない。
また、性について言えば、その言葉で言及する箇所は先の公冶長13と陽貨2の二条のみだが、性とは人間本性であり、生まれついての、自然の、人間の本姿であって、儒家はそれを仁と呼んでいる訳であるから、言及が少ないどころかこれもまたそこかしこで触れられていると言える。
陽貨2「日、性相近也。習相遠也、子曰、唯上知與下愚、不移」
公冶長13「子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性與天道、不可得而聞也已矣」
うまれつき、そのように作られている、なら、それが天意なのだろう。という事だろう。
曰く、天、徳を我に生せり。
これらは『中庸』に謂うところの「天の命じるところが性、性に従うのが道、道を修むるを教えと謂う。」と、割とすんなりとつながるように見ゆるのだが。