Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

論語中の古聖王

所謂、古の聖王と呼ばれる堯舜禹などの説話は孟軻以降のもの*1とする記述を見たので気になって調べてみた。

 

論語中に引かれる古の聖王の条は全部で10件ある*2

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堯に言及するもの5件、舜に言及するもの7件、禹に言及するもの4件と、舜に関するものが多い。また、堯のみに触れるものは1件、舜のみに触れるものは2件、禹のみは2件あり、堯舜を合わせて語るものが4件、舜禹を合わせるものが2件あって、舜の比重が大きく、堯舜での組み合わせがやや多い*3ように見える。

 

舜は、儒家思想の解説本とも言える『中庸』、孔丘を模範とする孟軻の『孟子』においても絶賛されているが、それは舜が三代の中で初めて玉座を譲られ、また自身も譲ったという、徳治主義の象徴とも言える位置づけにある事を考えれば何ら不思議な事でもないだろう。堯舜禹の説話が孔丘の時代にはまだなかったならともかく、あってそれに触れずという方がむしろ考えにくい。

また堯のみを云う一条は、「堯は天意に則って立派だなぁ(泰伯19)」と称える一文であり、将に徳治主義が天意によって基礎づけられている重要な一文に見える。論語における天と性については別にまとめてあるが、「天生徳於予(術而22)」なども後学の手によるものなのだろうか。

舜のみを云う二条は、「舜は身を正しくしていただけで天下が治まり(衛霊公5)」、「その天下を保つや皋陶あり(顔淵22)」と、自らは慎んで他の者に任せていた事をいう。これを見て思うのは君子は独慎すといい、手本として舜を讃える『中庸』*4や、舜を君子として讃える『孟子*5などであるが、孟の讃えぶり*6を見ると何だか気恥ずかしく、どこからでてきたのか分からない肉付けしたような話が多い事も考えると、孟を先、他を後というのは何だか無理がありそうだ。

 

禹のみを云う二条は、「禹は元は農民だったが天下を有するまでになり(憲問5)」、「自分の事は薄くして孝を鬼神に致す(泰伯21)」というものである。憲問の条もまた徳治主義をいうものである。また、儒が葬儀祭礼に従事する者たちであったらしい*7事を思えば泰伯の条も違和感のある話ではなく、むしろ彼らが鬼神のみならず生にも仕えるようになっていくという流れが見えるように思う。

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10条の内訳は、泰伯4、憲問2、雍也1、衛霊公1、堯曰1、顔淵1となっており、泰伯に集中しているが、泰伯が全てという訳ではなく、同程度に諸所で孔丘の言葉として古の聖王が語られている。各篇の成立に議論があり、後学の手によるものもあるのかもしれないが、少なくとも初期の儒家思想に合致しないものではなく、また論語中に整合しないものでもない。むしろ、より単純で原形的なもののみが論語には収録されているように見えるのだが如何なものだろうか。

語の460~512章*8ある内の10条と言えば明らかに少ないが、内容的には充分であり、有体に言ってしまえば、堯舜禹という古の聖王たちが見ていた世界というのは、孔先生に教わっているような段階では、まだまだ遠きに過ぎる話と言えるだろう。とするならば、単に量が少ないからと言ってそれが枝葉末節の議論であるとは限るまい。

 

 追記(7/4)

孔子伝』p.102-103に、例えば暁典は堯舜の説話に神話などを改変して加えたもので、書と同様の擬古体で孟子に舜を記している例があり、その頃に文献化が試みられたものであろうと云い、西周期のたしかな文献には堯も舜も禹もみえないと云う。

 

 

*1:白川静孔子伝』p.273、中公文庫、2013.

*2:主として金谷本(岩波文庫1979)に拠っているが、補助的に加地本(講談社学術文庫2017)も参照した。金谷本の索引を見ると堯が一条少ないのは、唐虞を含めていない事による。また、金谷本の憲問44は加地本では42、憲問6は5になる。

*3:雍也30と憲問44の「猶病諸」が重なるので大差ないとも言える。

*4:金谷治訳注『大学・中庸』中庸1-1独慎、2-2大知、6-1大孝、岩波文庫2005

*5:小林勝人訳注『孟子(上)』公孫丑章句上8、岩波文庫、2013

*6:小林勝人訳注孟子(下)』心尽章句上16、岩波文庫、2013。名は体を表すという正名主義的な連想からだろうか。

*7:葬儀については『墨子』非儒篇下2、祭祀への関りについては別にまとめる予定ではいる。

*8:影山輝國『「論語」と孔子の生涯』p.55-58、中公叢書、2016。