Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

洞窟の比喩、附録②

いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言葉を用いて、まさにそれぞれであるところのものへ前進しようとつとめ、最後にまさに善であるところのものそれ自体を、知性的思惟の働きによって直接把握するまで退転することがないならば、そのときひとは、思惟される世界の究極にいたることになる。それは、比喩で語られた人が、目に見える世界の究極に至るのと対応する。このような行程を、ディアレクティケーと呼ぶのだ。532b

 

しかし、親愛なるグラウコン。これ以上ついてくることは、君にはできないかもしれないね。もはやこれまでのように言おうとする事柄の似姿ではなく、示されるのは、直接真実そのものとなるだろうー少なくとも、私に現れたかぎりでのね。私がその真実をほんとうに正しく見ているかどうかということまで、確言することはできないが、何かそのようなものをみなければならぬということだけは、つよく主張して然るべきだ。そうだろう?533a

 

ディアレクティケーができるものとは、それぞれのものの本質を説明する言論を求めて手に入れる人の事である。それができない者は、本質を説明する言論を自他に対して与えることができない限りにおいて、その当のものについて知をもっているとは言えないのではないか?その影のようなものに触れることがあったとしても、それは思わくによって触れているのであって、知識によるものではない。そのような者は、この世で目を醒ますより先に冥界へ行ってしまい、完全な眠りにおちてしまう事になるだろう。534b-d

ディアレクティケーとは、もろもろの学問の上に仕上げとなる冠石にように置かれているのであって、他の学問をこれよりも上に置くことはできず、習得すべき学問についての論究はこれをもって完結する。535a

 

 

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おお、グラウコンよ!