Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

とんだ災難をもたらすもの

アルケシラオス Ἀρκεσίλαος(アカデメイアの六代目学頭)は次のように言う。

すべてのことについて判断を留保する人は、選択と回避、また一般に行為を律する物差し[基準]として「理に適ったものを」用いるであろう、そしてこの基準に従って進むことによって正当に行為するであろう。

というのも、幸福は思慮を通してもたらされるのであるが、思慮は諸々の正統行為のうちにあり、そして正当行為とは、それが行われた際に、理に適った弁明を備えている行為だからである。

かくして、「理に適ったもの」に留意する人は正当に行為し、そして幸福であるだろう

 

金山弥平・金山真理子訳

セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁2』p.72西洋古典叢書、2006

 

 

 そしてこちらは現代の修辞学者の言。

もちろん、私たちの意見はみな健全なものであると信じたい。しかし、あまりに多くの人が、あまりに少ない根拠に基づいて、あまりに多くの意見を受け入れている。そのため、誤った理解や危険な考えが世に蔓延している。そして、最近の出来事が示すように信頼できない根拠に基づいて行動する人は、私たちに災難をもたらしかねない。ウェイン・c・ブース他、『リサーチの技法』p.35、ソシム、2018

 

 

 

そして、現代に限った事ではないのかも知れないが、ある種の特徴的なモノの考え方をする人々の立場というものがある。哲学的には古代の段階で既に克服済みのはずであるが、歴史的にみると度々主張されて根強く残っているようだ。

現代思想タイプ1.独我論

  自分の感覚以外はもっともらしい仮説に過ぎない。

 

現代思想タイプ2.エクストリーム懐疑主義

  外界が存在する事を認めたとしても、それについて確かな知識を得るのは

  不可能だ。

この二つについては『知の欺瞞』p.73-75を参照されたい。

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』ポストモダン思想における科学の濫用、岩波書店、2000

 

さて、先ほど挙げたリサーチの技法の一節を、

もちろん、私たちの意見はみな健全なものであると信じたい。しかし、あまりに多くの人が、あまりに少ない根拠に基づいて、あまりに多くの意見を受け入れている。そのため、誤った理解や危険な考えが世に蔓延している。そして、最近の出来事が示すように信頼できない根拠に基づいて行動する人は、私たちに災難をもたらしかねない。

ウェイン・c・ブース他、『リサーチの技法』p.35、ソシム、2018

 

古代人の懐疑的感覚(正確には、判断を留保する者たち)に従って読むなら災難をもたらす信頼できない根拠に基づく行動とは理に適ったものに留意しない行為となるのだろうが

タイプ.1に従えば、それは自分の感覚によらない行為であり、タイプ.2の場合には、外界についての知識に基づく行為が災難をもたらしかねないものとなってしまう

 

もっとも、このテキストを読むためにタイプ.1とタイプ.2が主張された訳ではないから、このように読んでしまうのはきっと適切ではないだろう。

 

だが言葉だけで遊ぶとそういう事になってしまう。

 

 

 

残念な事に、人は独りで生きているのではない。 例え、自分が適切な判断をできたとしても、他もできていなければ仕方のない事が往々にしてあり、場合によっては、というよりもしばしば、他の者たちの残念な判断によって、とんだ災難に巻き込まれてしまう可能性が常に事がある。

実際に、私を面倒事に巻き込んでくれた者たちの言動を振り返ってみると、彼らは自分の感覚以外は信じておらず、外界のことについてはそんな事は分からないといい、理解するつもり(恐らく、能力も)も全くない、という共通点がある。そして、彼らにとっての理に適ったものという事の理解が、どうにも私の知るとそれとは名前だけしか一致してくれない。

彼らが主張するように主義主張は勝手であるし、その事には同意するが、だが、そのように主張してまわりに迷惑をかける彼らの発想は一体どこからやってくるのだろうか?何らかの思想に蚊ぶれてなのか?それともより根源的な魂の闇からやってくるものなのだろうか?謎である。