Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

人間の世界

人間は万物の尺度であるって言う時、それは「人間にとってあるものがあり、ないものはないものとして」あるという事なんだ。それに加えて「すべては感覚として現れているに過ぎない」と言うのであれば、それは「それが人間にとってのすべて」という事で、結局それは「人間にとってあるものがあり、ないものはない」ものとしてあるだけになる。

それはつまり、それが「人間の世界」という事なんだ

 

この僕達の住んでいる世界にある物事を、全く知る事ができないとする君は、そんなあやふやな世界でいったいどんな足場に拠って立つんだろうか。信仰?信念?君の好きなもの?或いは数学だとか論理学だろうか?もし、君が望むように「世界が存在しない」とするならば、それを語る君は存在していない事になってしまい、結局、君は何も語っていないことになってしまうけれど、君が伝えたかった事は、まさに「君は何も述べていない」という事なんだろうか?

それとも単に、僕に愛想が尽きて、遠回しに「僕の事はもういないものと思ってくれたまえ!」そう言っているのだろうか?

 

認識の対象となる事物としての存在

人間が物事の真/偽(ある/なし)を決定しているのではないことは、妄想、想像、虚構だとかの名前で呼ばれている事物がある事からも明らかだ。これはその様に呼んでいるのは人間の勝手だけど、そこにはその様に呼ばれている対象が在るという事だ。人間が真/偽を自由に決めてよいならば、単に思い、願うだけですべてが事たりてしまうだろうから、そうした夢の世界には、妄想、想像、虚構の類のものは存在する事だってできないだろう。

それとも僕達は何でも適う夢の世界で、何故だか叶わない夢でも見ているのだろうか? 

 

単に思い、願うだけの君には「真実なんてどうでもいい」ものなんだろう?だって、君が望んだものが真実になってしまうのだから。

 

けれど、実際には人間ではではなく、対象の側 ー 言い換えるなら、この世界の方が「何が真か」を決めている。現に実のあるものが真であり、無いものが虚だ。アートや言葉はいとも簡単に現実に根のない虚構の世界を創りあげるけど、哲学が問うているのはこの真の方なんだ。それはより適切な答えを求めてーという意味ではあるけれど。

 

適切な例かは分からないけれど、こんなことがあったんだという話 

これは精神を病んでいる男の話を含んでいるので扱いには注意して欲しい。

その男、仮にOとしておくけれど、が言うには、ある女性が「自分に対して気がある、結婚したがっている」との事だった。なぜ、そう思うの?と聞いてみると、会うといつも「こんにちは」と声をかけてくれるからと、興奮気味に教えてくれた。

詳しく聞くと、どうやら相手は、Oが精神病院の待合室で診察を待っている時に、何度か見かけた、製薬会社のお姉さんらしい。つまり、得意先のお客さんに対して愛想よく挨拶してくれたに過ぎないようだった。

この場合、真/偽を決めるのって誰だろうか?Oか?それとも、そのお姉さんだろうか?ただの挨拶でしょ?と言う僕に、Oは「そんな訳ない、知らないからそう言うんだ」と言って形容しがたいニヤけ顔の喜色を浮かべていた。(キショク悪いとはこの事だ!)

 

不謹慎な事例についての哲学的と言っていいのか分からない解説①

こうした事例が「哲学と何の関係があるんだろう」と思うだろうか?けれども、適切な物事の認識や理解、状況や事態の適正な把握は哲学の目的とするところで、それらは結局、僕たちが社会生活上の様々な問題を扱う上での、前提となる或いは背後にある、現実に対する基本的な認識に関する問題なんだ。物事が見えていなければ、適切に扱えないよね?

上の事例で言うと、お姉さんに気持ち悪がられるリスクを僕が冒して確認すれば真実は明らかになるかも知れない。けれど、お姉さんの証言が真実であるのか、それはお姉さんにしか分からない。本人ではない僕たちは察するしかない。おまけに、Oは自分にとって都合が悪い事は一切受け入れることができない精神の持ち主で、強いストレスがかかると記憶が抜け落ちてしまうし、何とか言葉の解釈を変えることによって違う意味に、つまり自分に都合よくとることができないかを常に模索しているような人間だ。 

要するにOのようなタイプには、真実がどうであれ、まったく関係がないんだ。真実は当人しか分からないという真実そのものがもつ性質に加えて、Oのようなタイプにかかると都合が悪ければ否定して「どう考えたって、ありえないこと(偽)」にされてしまう、というややこしさがある。 どうだい?これって、とてもまともな話とは思えないだろう?仮に、真実がとっても単純な事であったとしても、そこに介在する人によっては、こんな風にとても一筋縄ではいかなくなってしまうんだ。

難しいよね?人間って。

 

不謹慎な事例についての哲学的と言っていいのかは分からない解説 ②

このケースでは関係する因子(factor)が全て人間だけど、真/偽を問う際に、参照すべき相手が、人間ではなく、状況や事態、モノ言わぬ物事だった場合にはどうだろうか? Oのように自分の思うように世界を解釈するべきだろうか?それとも注意深く観察するなり、検証して確かめたりしながら、事の真偽を確かめてみようとするだろうか?この択一は適切ではないかもしれないけれど、この世界を眺めるとき、君はどちらのタイプなんだろうね?

事例では答えを間違いなく、つまりを正解を知っているのはお姉さん本人だった。でも状況や事態、物事の場合だと、答えを知っているのは誰になると思う?多分、科学者や一般的な常識のある人なら「専門家」と答えてくれるはずだ。ただ、哲学ではそうはとらない。答えを知っているのは、お姉さんの場合と同じく、それ「そのもの」だけだ。「それ」だけが唯一間違いなく正解を知っている。そして、哲学は「それ」が何であるかを問うんだ。因みに、 哲学的に言えば専門家というのは、常に「それそのもの」と対話を続けている人の事だよ。

僕はお姉さんじゃないから、好きに妄想していいんだ!何だってありだ!というのは、思春期の男の子の妄想としてならありなのかもしれないけれど(ありなの?)、大人としてはとても健全な思考とは言えないよね?

 

 

事物の指し示すもの、哲学の語る対象 <simple>

物事はすべて感覚に拠っているという事は、本来的な懐疑主義(もちろん、ピュロン主義。ピロシキじゃないよ?)の意味で言えば、それは「現われに従う」という事で、そうすると、物事の真/偽は誤った認識には依存せず、適切な認識とは物事の似姿に過ぎないという事になるはずだ。「違う!」と言われても、残念だけど、今の僕にそれは理解不能だ。きっと、もうそういう脳になってしまっているんだろうね。だから、僕には真実は見えない=つまり、僕には理解できない可能性があることを、僕は十二分に承知しているよ?僕はもう僕は手遅れ、ご愁傷様であるかもしれないけれど、君の方はどうなんだい?「自分には理解できるはず!当然じゃないか!」そう思っていたりするのかな?

 

タイトルは忘れたけれど、前項で見たように(少なくとも僕は見たつもりなんだ)、閉ざされた言論空間では物事は如何様にも決められるし、上の事例でも見たように、世界を無視して発情してしまえば、何だって可能になる。話についてきてくれている人ならば、きっとそんなのとんでもない!そんな馬鹿な!と同意してくれるだろうと思う。けれども、こうした問題は決して現代になってから始まった訳ではなく、ずっと大昔から(僕の感覚からするとそんなに大して昔じゃないんだけど)やっぱり問題だったんだ。

 

たぶん、ソフィストという言葉を聞いたことがあると思うけど、対象を省みず、つまり世界を無視して「言葉だけで真/偽を決めてしまう技術」を詭弁と言って、そうした技の教授を専らとしていたのが、このソフィストと呼ばれる者たちだったんだ。この言葉のそもそもの意味は「賢い者」でー要するに、賢者だー実際に教えていたのも、別にズルっぽい詭弁という訳じゃない。ただ「言論という言葉の技術」を教えていただけなんだけど、彼らは哲学からの批判に晒されてしまった。

何でかって言うと「賢いけれど、分かってない」から。一言で言えば、これに尽きる。

 

でも、そう言われると「ん?分かっていないって、何が?」ってなるよね?そして、この点が正に「哲学の鍵」となるところなんだ。結局のところ、哲学はこれに向けての事しか語っていないとも言えるしね。哲学からすると、この「何が?」を、言論という言葉の技術を扱うソフィストたちが全然分かっていないのは、彼らが言葉しか見ていないからで、肝心の「それそのもの」が彼らには見えていなかったからなんだ。

 

見えていない人たちにかかると、途端に「どう考えたって、ありえないこと(偽)」にされてしまうけれど、見えない人たちが見ている言葉の向こうに在るもの、物の背後に在るもの、そうした「それそのもの」の事。哲学はこの事を表現するのに、真に在るものとして真実在と言ったんだ。その後も、この「ある」について、実際に在るものとして実存とか、現にあるものとして現存在とか、現に象られているものとして現象とかいろいろなタイプの「ある」が出てくる。まぁ、要するに哲学はずっと、あるある、あるある言って来たんだ。でも、あくまで個人的な見解で言うのだけれど、基本的には最初のものだけを押さえておけば充分。それがそもそもだし、これから僕がしようと思っている話の基礎でもある訳だから、他のは要らない。いや、そんな事はないっていう人もいるかもしれない。でもその話はまた今度聞く事にするよ。だからとりあえず、先にそのそもそもの、もっとも基本的な話を続けさせて欲しい。

 

さて、そうは言ってもこれってどうやって説明したらいいんだい?呑気な人は、言葉で説明できない内は、本当に分かったとは言えないだなんて、実に気軽に言ってくれたりするんだけれど、僕にはとっても難しいことのように思うんだ。

 

だって、これ見えない人がいるんだよ?彼らからしたら「ないものが見えてしまう」だなんて、きっと「幽霊」でもみたんじゃないか?っていう話になる。でも、これはその逆で、「あるものが見えない」という話なんだ。つまり、この話は、見えない人からすると、幽霊話と大差ないってことになる。きっと、力説すればするほど、おかしな人って思われるよね?でも実際には、単に言葉の向こう側、物の背後にあるものを「これだよ」って言ってるだけなんだけどね。

もう一つの難しさは、「それがそれである理由」を「そのようなもの」として説明するとき、何故そうなのか?その根拠はどこにあるんだい?っていう問題。実際にそれを見ることができれば納得してもらえるかもしれないけれど、言葉の上では何も説明されていない事になるんだよね?それはそれとか、そのようなものとかっていう事は。君が君であるのは、どう見ても「そのようである」し、それは他のことでだって同じことなんだけど。

でも、彼らは草を生やして笑うんだ。

「truth = truth? 何それwwwwwww何も言ってなくねwwww」ってね。

 

それがそれである理由、そのようなものである根拠。昔の人は二つの方法でこの難問に答えることを回避した。ひとつは、そのように決められているのだという神的な説明。もう一つは、昔からそうだったという神話的あるいは歴史的な説明の仕方だ。そして、数学や論理学はこれらの説明に根拠を与えようとした(んだと僕は思ってる)とっても複雑な式を用いてね。そういう方面での人類の努力については、間違いなく僕より君の方が詳しいと思うよ?

でも、気が付いてくれてるかな?僕はもうとっくに、それがどういう事なのかについて必要なことはすべて説明したつもりなんだ。もし、足りなければそこは君が代わりに考えて、僕にその説明の仕方をこっそりと教えて欲しい。

 

物事の指し示すところ、哲学の見ているその対象<complex> 

この世界が何から出来ているかって事については、前に話したから省くけど、物事が集まると、そこには仕組みができて、コラボする。人間が集まると、仕組みができてコラボするの同じだ。人間はコラボのための仕組みを作れるから、どっちが先かとりあえずあんまり気にしなくていい。肝心なのはコラボレーションのために様々な仕組みを人間が作ってるってコト。コラボ自体も仕組みだしね。でも、即物的な人にはこれが見えない。彼らにとってそうした仕組みは幻想で、本当は存在しないものなんだ。これは見方なのかな?それとも見えてないだけ?言葉の綾みたいなものなら別に構わないんだけど、そういう人って基本的に根本的なところで分かっていないんじゃないかなーと、僕は常々疑っている。

 

さて、物事はコラボして仕組みをつくる。道徳や倫理もそうした仕組みのひとつなんだ。 道徳や倫理の話を始めると、すぐにページを閉じられてしまいそうだけど、少しだけ我慢してこの話にも付き合ってほしい。道徳や倫理って中には人間が作ったものと思ってるひともいるかもしれないけれど、実はそうじゃない。人間がコラボレーションを続けていくには、自ずとそれが必要になる。そう、道徳や倫理がなければ社会は成り立たない。言ってる意味、分かるかな?道徳や倫理というものは、別段、誰かが決めたわけでもないけれど、社会というものを維持するためには、どうしたって必要になってくる。その事の話だよ?

 

道徳や倫理というものは、社会を成り立たせるためにある。つまり、道徳や倫理はそれ自体が目的なのではなくて、そこにはより根源的な大本となるものがあって、そこから派生してくるものである訳だ。それらは、この根源的な「何か」を捉えた静的な形式にすぎず、準拠すべき形式であるに過ぎない。だから、道徳だとか倫理を杓子定規に捉えると、反ってうまくいかないこともある。大本から見ると、道徳や倫理が大事なのではなく、社会がうまくいく事に意味がある。道徳や倫理という基準に照らして物事を扱うのではなく、物事を全体的に見て、もっともうまくいきそうな、もっともよいもの。それが大本にある、より根源的な「何か」の正体だ。コラボするには、価値観じゃなくって、無理なくすっきりと上手くいくような仕組みが必要だろ?その仕組みがよく分からない人たちのために、分かりやすくしたものが形式なんだ。

 

この可能な限りのもっともよいもの、つまり「最善」がその「何か」だ。杓子定規なひとは「もっとも完成された一律に適応できるような、人々の従うべき絶対的な基準」のようなものを「最善」だと思っているみたいだけれど、物事が示すところに従えば、全然そうじゃない。もちろん、だからと言って道徳や倫理を無視しまくって良い訳じゃないよ。ただ、それらが何にも増して優先されるようなものにはなりえない、という事なんだ。基本的には、社会的生活を営むのであれば、道徳や倫理に則って行動していれば問題はないんだけれど、何でもかんでもそれでうまくいっていう訳じゃない。だから、「どうすれば上手くいくだろうか?しかも、なるべく無理の無い形で」という事を常に考える余地が必要なんだ。物事を道徳や倫理の問題としてではなく、最善の問題として考えることで、そうする事で初めて、道徳や倫理が「まさに従うべきもの」であるというお説教から「共棲の持続可能性」という秩序は如何にして可能かという現実的な問題へと進むことができるんだ。

 

さて、ここでした話は「道徳や倫理という言葉(形式)じゃなくって、最善という「それそのもの」を見てね!」っていう話だけれど、どうだろう?ちゃんと伝わっただろうか?それ「そのもの」という事は、それがその本質(それを成り立たせている本体、それそのものの事)であり、本性(自然な、生来的な、それがそのようであるところのもの事)でもあるのだけれど、何だか分からないけれど、そしてそれが本当にそうなのかは分からないけれど、そう呼ばれているものがあることは君も知っているよね?言葉(形式)だけしか見ないソフィストには見えなくて、見るものがそれだけには留まらない哲学には見えるもの。例え不十分ではあったとしても、それなりに僕は「言葉に」できただろうか? 

 

我々のいる、この世界 

人間は独りでこの世界を生きている訳じゃないんだ。僕たちは群れで生きる動物で、互いの協力によって可能性の幅を広げてきた。現にあるこの世界は、それぞれが一人で生き抜いて来た結果としてではなく、集住と共棲の結果として築き上げられてきたものなんだ。これを普通、文明って呼んでいる。

 

けれども、一人で生きているのではないという事は、互いが互いの影響を受けるという事でもあるよね?つまり、いくら自分が適切に判断して、適切な選択を行いえたとしても、他の人たちの無思慮や暴走が引き起こす災難から逃れる事は、決して簡単な話じゃない。僕たちは他人の行動の結果も背負わされるんだ。もちろん、これはお互いに言えることだけどね。だから、一人の選択は他に影響を及ぼし、各々の選択は群れ全体にも影響を及ぼす。そしてまた、群れの舵取り如何は、その群れで暮らすみんなに影響が及ぶ。群れで暮らすっていうことはこういうことでもあるんだ。

 

他に影響しないことや、他の人や皆に関係しないことは、他の人から見ればどうでもよいことであって、個々の好みに応じて好きにしたらいい問題でしかないんだけれど、他に影響が及ぶようなことは、そうもいかない。自身に、そして皆に影響が及ぶような問題については、言葉の上ではどうであれ、現実的には決して無関係ではいられないし、皆に関わる問題はどうでもいいことでは決してないんだ。それはつまり「私の勝手でしょ?」という理屈は、群れで生きる以上、問題の性質によっては必ずしも通る訳ではないっていう事だ。

 

群れの存続、つまり、皆がやっていけるようにする、やっていく、という事は、 群れの中に各々の居場所があるという事を前提としているし、また、僕達は群れの一員ではあっても群れの奴隷では決してない。という事は、つまりそれは、少なくとも個々の領域というものが群れの中に確保されていなければならないという事を意味しているはずなんだ。

 

もちろんこれは、一人のために全員が犠牲にされるという事ではないよ?そしてここでの話は、みんなのために一人が犠牲にされる話でもない。僕が「みんな」という時、それは決して文字通りの意味ではないから、「群れが」という他ないんだけれど、それでもそこで暮らすみんながやっていけるように、何とかするっていう事が、ここでいっている最善という事の中身だ。この最善は上でも言った様に、価値観に照らしてそぐわないものを排除してしまう、あの言葉だけの最善なんかじゃ全然ない。それだけは忘れないでくれたまえ。

 

だから、この立場は「群れを省みない者」や「群れに無関心なもの」、「皆とやっていくつもりのない者」たちなんかとは相いれない。勿論、「群れを私物化しようとする者」ともね。この世の中には、群れというものを牧場か狩場かなんかだと思っていて、道徳や倫理といったものを獲物をそこに縛り付けておく鎖、安心させておくための罠のようなものとして、そこで狩りができるようになる事が一人前になる事だって思っているようなケダモノたちだっているんだ。そうした者たちから群れを守り、皆がなんとかうまくやっていけるように、僕達は常に模索し続ける必要がある。

 

他方、この世界で生きているのは僕たちの群れだけじゃない。他にも、僕達と同じような、言ってみれば違う「僕たち」がたくさんいる。わかるかな?同じ人間ではあるけれど、違う人間でもある彼ら。異なる人々の作る別の群れがあるんだ。群れ同士の間には、様々な緊張や軋轢があって、時に衝突したりもする。そしてまた、歴史は昨日今日に始まった訳じゃないから、そこには過去の経緯やしがらみというものだってある。僕たちは、この世界に自分たちの居場所を確保しつつ、彼らとも渡り合っていかなければならないんだ。

 

そうすると、群れの存続というのは、内に対しては何とか皆で上手くやっていけるようにし、外に対しては自分たちの居場所をなんとかして守っていく、という事になる。そうやって僕たちはこの世界を生きて来た。ずっと大昔からね。それができなかった群れは消えてなくなっちゃったけど、それがこの世界で生きていくという事であり、それがこの世界、人間の世界というものなんだ。その世界での僕たちにできる、可能な限りのもっともよいこと、それが最善ということだという事は、もう言うまでもないよね?例え、それが君の思っているようなものとは違っていたとしても。だろう?

 

 


 

 

 

参考文献)我々のいるこの世界