Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

エクストリーム懐疑主義への批判。

ドグマとは「考え」の事であり、スケプティスとは「考察」の事であったが、それぞれの契機を経て、その意味は「独断」と「懐疑」へと変容していった。同様に、懐疑主義も元は「現れに従って生きる者」であったのだが、そのままであり続けることはできず、やがて「すべてを疑う者」へと変貌していった*1

 

極端な懐疑への批判者たち 

セクストゥス・エンペイリコスによれば、懐疑主義とは現れに従って生き、法と習慣とによって生きる者たちであった。しかしながら、極端な懐疑主義、あるいはその言葉から容易に想起されうる諸問題として、文字通りにすべてを心底疑う立場への反駁は古くから行われてきた*2

ピュロンは実生活でも一貫性を貫き、何であれ避けることなく、身を守ることもせず、車であろうが、崖であろうが犬であろうが、すべてをわが身に引き受け、感覚をまったく信用する事がなかった。しかし、カリュトスのアンティゴノスのいうところによれば、仲間の者たちがついてきてくれたから安全が確保されたとのことである。

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』Ⅸ・62

 

彼らも崖の縁に来た時には気を付けて避ける以上、口で何を主張しようと、自分たちの理論を信じていない事は明らかである。

アリストテレス形而上学』1008b14-19

 

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クリストフ・コッホ『意識とは何か』日経サイエンス2018.09号、p54

 

このように、極端な懐疑主義は常に現実からの反駁を受けてきた。だが、現実から隔離された場所、例えば限られた言論空間などではどうであろうか?

 

言論空間における懐疑主義無双 

例えば、私が観察した事例の中にこんな一例がある。

三者の居ない、つまり、当事者以外は何が起きているのか知りようのない、閉ざされた室内で、私は彼に「果物」が「そこに在る」ことを提示した。

すると彼は、眼前に置かれた果物を「手をかざして自らの視界を遮る」ことで、つまり「不都合から目を背ける」事によって、単に私が言っているだけの話と主張して、目の前の「果物の存在」を単なる「私の妄想」に置き換えてしまった。

想像してみて欲しい。眼前に在る果物を、手で目隠ししながら、そこには「何も存在しない!」と言い張っている彼の姿を。そして、それが「哲学だ」という彼の魂と、それをぬけぬけと主張する彼に「唖然とする私」の姿を。

 

“哲学が軽蔑されるのはその資格のないものが哲学に手をつけているからなのだープラトン『国家』535c” 

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あのようなやり取りを経験してしまうと、やはりこれに肯首せざるをえなくなってしまうではないか!

 

勿論、この文章も単に私が書いているというだけであって、従って、それ以外の事実はないと言う事は「言論上可能」だ。だが、だからといって事実としてそれがなかったという訳では決してない。もっとも、彼に聞けば「否、そんな事はなかった」というかも知れない。あの時、彼によって疎外されてしまった、可哀そうなあの果物のように。

 

おそらく物事は、言論上では無視や歪曲によって、いかようにも変えられる。

 言葉の吟味にかけられて論駁されたとする。そして何度も、色々な方法で論駁された挙句、自分が教えられてきたことは何も美しくなく、醜いことなのかもしれないと考えざるをえないようになり、その他の事柄についても同様な経験をしたとする。すると、もはや前と同じようには尊重もしないし、服従もしなくなってしまうだろう。ゆえに、そうした痛ましいことを避けるためにも、言論の習得に着手させるには、あらゆる用心と警戒が必要*3なのではないだろうかープラトン『国家』538e

故にこそ、その事への警鐘がこのように述べられているのだろう。

 

意思する懐疑主義 

さて、結局、私は彼が眼前の果物について認識できないというので、彼の財布の話に話題を変えた。「君が自分の財布だと思っているものは、実は君がそう思い込んでいるだけだ。」だから、財布を寄越すようにーと。すると、彼は頑なに財布を渡すことを拒んだのだったが、これを当然だと思うだろうか?目の前の果物が認識できない男が、何故か自分の財布だけは認識できるという事を?*3

 

ここで明らかな事は、彼は「何が財布」であるのかも、それが「存在する」ことも明確に認識していて、自分の都合によって事実を選択しているという事だ。私が果物を指さした時には手を翳して視界を遮り、果物を押し付けた際には目と綴じて果物を見まいと懸命だったし、財布に至っては何が困るのか懸命に抵抗を試みた。これらの事は、少なくとも彼がその「現れ」によって明瞭にこの世界を認識しており、単に言葉の上でだけ、その「ある/なし」を自分の都合で勝手に決めていた事を意味している。

 

自分の都合に応じて、他者の言説に対しては徹底した懐疑で応え、自分の言説に対してはデカルト的理解の拡大解釈によって都合よく正当化し、世界は彼の好みに合わせて自由に解釈されてゆく。彼にとってはそれがアートであり、哲学なのらしいが。

 

 

対象に留保しない言論空間では、物事への理解が進むどころか、反って遠ざかる可能性があるということに留意しなければならないだろう。 

 

以上の事例は、意識的に事実を無視し、言論によって故意に(すなわち悪意によって)黒を白とする、哲学の嫌ったあの現実を歪める術についての話であるが、他方には無意識的に事実を無視し、言論を通じて理解を試みることによって、反って黒白が逆転していってしまうという、信じがたい人々が存在する。こちらの方がより深刻なのだが、それについてはまたの機会に触れることにしよう。

 

 

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*1:金山弥平「古代懐疑主義」『哲学の歴史2』p.184-208、中央公論社、2008

*2:ibid

*3:適切な議論の応酬としては、恐らく彼は財布を認識しないことが正しい反応だったように思う。そうすれば私も心置きなく彼に事理弁識能力を欠くのが常況である人として、後見制度を利用する事を勧めることができただろう。