Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

そのようなものであるもの。

そのようなものである事を説明するのは難しい。何故、それが当たり前で、そのようなのか?それ以上遡る事ができないところから、如何にしてそれを説明したらよいのだろう。ある者たちにとって、何故それがそうなのかは物事の落ち着くところとして自明の理なのであるが、それが見えない者にとって、その理はまったく自明のことではありえない。この説明に人は昔から苦慮してきたように思う。

 

何故そうであるのかの説明 

そのようなものである事。それはその自然であり、本性であり、それをそれたらしめる本質でもあるが、そのような本質は何故そのようなのであろうか?この事の説明として、そのように決まっている、決められているという説明の仕方と、ずっと昔からそうだったのだ、いつの時代も同じであるという説明の仕方がある。前者はその何故誰を詩的に神的なものとして表現するが、後者は過去を渡り歩いて壮大に主張される。

 

詩的な回答

人は昔から、分からないがそうであることの説明を、神という表現によって答えてきた。否、委ねてきたと言ってもよいのかもしれない。(壮大さはないがこれも後者の形式である。)

・この世界はどうしてあるの?→神が作りたもうた。

・わたし達はどうしているの?→神が作りたもうた。

どうしてなのか?人間はその問いの正解を知らずとも、この世界は現に在り、我々もいて、どのようにそうなったのか分からずとも、現にそのようになっている。つまり、単に我々が知らないだけで、その答えはそこに在った。この事の詩的な表現が神的なるものによる説明なのだ。

・なぜ彼らの都市はあんなにも繁栄しているのか→マルドゥクが偉大だからである。

・なぜ彼はあんなにも優れているのか→彼が神に愛されているからである。

・なぜ彼はあんなにも立派な人なのか→天が彼に徳を生やしたからである

日月は繰り返し、四季はまた巡り、万物は育成され、世界が満ちていく→なぜ?

古代の人々は素直に「分かりません」と答えるにはあまりにも詩的に過ぎた。

 

神意に何を求めたか? 

古代の人々は何事かあると、すぐ神意を問うた。それは起きた出来事がどういう事であるのか、また、我々はどうするべきかについて尋ねるものであったが、それは決して参考意見の一つとして聞いているのではなく、正解そのものを聞くものであった。この事は彼らが信心深かったからではなく、それが彼らの時代のやり方であり、単純で直截的ではあるが、答えを知ろうとする彼らなりの努力の現れであっただろう。そして、自分が勝手に言っているのではなく、神がそうであると言っているのだからという説明は、自分に対するより他者に対する十分な説得になりえた。

 

哲学の方法 

ソクラテスは事あるごとに軽々しく神意を問う行いを冒涜と見なしていたが、それは神々が人々に答えているように、神々がするようなやり方で(神の跡を辿っていけば)神を真似れば、神々を煩わせることなく適切な答えに辿りつけるからである。その正しい答え、知を追い求める道を彼はディアレクティケーと呼んでいた。

続くプラトンは対話による探求を行ったとされているが、それは誰かと議論を交わす事で認識を高めていくような方法では実はない。彼の対話編に現れる人物たちの名と姿を捨象して残るものとは、神々の名を剥奪して残るものと似たようなものであるのだが、神々の場合には原理的に正しいものだけが残るのに対して、人間の場合には誤りも含んでいるという違いがある。その人間の魂が捉えた世界の欠片の一つ一つを吟味して、あーでもないこーでもない、合っているのだろうか?間違っているのだろうか?というプロセスを通じて、真なる答えとの対話を繰り返していくことが彼の言う対話なのだ。そしてこの時に彼が見ているものは、紛れもなく、それそのものであり、そのようなものであるものであった。

 

※神々から名前を剥奪すると、個々の性格が失われて正しさのみとなり、区別する必要がなくなって一つの神性だけが残る。ならばそれで十分だろう。

 

 

 

虚構化する世界

現代においては、もはや神的な表現による当たり前の事、そのようなものである事の説明は受け入れては貰えない。そうすると歴史的な方法が残ることになるのだが、近頃見受けられる手法では、現実の世界に根のない虚構による説明であり、単に分からせるという事だけに力点をおいて、受け入れられやすければ何でもよいようでさえある。

※勿論、今になってそうした手法が現れたわけではない。過去の改変、創作は昔から行われているが、そうしたことを超克するものとして近代歴史学が現れて以降にこれなのである。特定の教えに基づいてなされているのなら、こうした動きもまた宗教と言えるが、どちらかと言えば、言葉を尽くして説明したところで意味が分からないくせに妙に信じやすい性質の人々による民間信仰のようなものにも見える。民間信仰であれば、政策的に利用したところで、政教分離の原理に反するものではないとの言い訳も立つし、気に留めるものもそう多くはないのだろう。

真実を伝えるための手段として虚構を用いるのはアートの世界の手法だが、虚構があたかも事実であるかのように振舞っていて、嘘で塗り固められた真実というようなドラマチックな状況になっている。TVでは「この番組はフィクションであり~」とお断りを入れてもらえるが、このアーティスティックな手法では、そうしたお断りは一切なく、むしろこれこそが真実であり、違うというのは解釈の問題であるとして、真なる事実はまったく省みられることがない。

 

そこで疑問に思うのだが、そのような嘘によって祭り上げられるそのようなものであるものは、本当にそのようなものであるのだろうか。何かそのようなものに似ているが実は全く別のものではないのか。同じ言葉で語られはするが本当は違うものなのではないだろうか。そのようであるものはないという者たちが掲げるそのようであるものとは一体何なのであろうか。それともそのようであるものはあるが、そのそのようであるものとは、彼らの掲げるもののことなのだろうか。

いずれにせよ聞こえの良い美名につられて飛びつかないよう慎重になる必要があるが、このように主観的に相対化されてしまった世界で如何にしてそのようであるものを示せばよいのだろうか?

 

追記

神的なものによる説明は、現在は、そういうものであるものとして。科学による説明になってますね。そして科学の方には疑似科学、歴史の方には偽史、という虚構があるようです。