Was I Dreaming?

A reverie is going to be told by me.

夢の場所(2)死すべきもの

前回、夢は夜と眠りと関連付けられ、映像として理解されていた事、そして、何故、人は眠るのかについて「そういうものである」という説明が詩的に表現されていた事を見た。以下では、そうした眠りから戻らぬ者たちがどうなると解されていたのかを見てみよう。

 

 

眠り

人間が死すべき運命にあるとしても、どのようにして彼らは還らぬ者となるのだろうか?

血が流れ果ててしまったから?

肉体が壊れてしまったから?

最後の息を吐き出してしまったから?

これらの問いは裏を返せば、どのようにして人は生きているのか?という問いと同じになるが、これらの事について古代の人々はどのように考えていたのだろうか。

儀式に際して犠牲獣の血*1を捧げたり、神々の血から人間が生まれたとする神話*2があるように、古代の人々が血に何か特別な力を見ていた事は間違いない。最後の息が重視される*3のは、人が死に際して絶息する事に尽きるが、呼吸をすることによって生きていられる事や、煙やガスなどの気体が様々な作用をもたらす事*4を思えば、古代の人々がそこに何か神的なものとの接触や媒体となるものを見ていたとしても何の不思議もないだろう*5

肉体が何故動くのか?そしてまた何故、動かなくなるのか?それまで動いていたものが、もう動かなくなる。通常、この説明に魂の概念は使われる。動かなくなってしまったのは、それまで中にいた何かが、土くれに戻る肉体だけを遺して何処かへと行ってしまい、戻らなくなったからだ、というように。しかし、河間の地における理解では、神々によって定められた運命に従って、人は死ぬとその存在の在り方を変え、冥界へと下るのであって、特にそれが魂の脱漏などによるものなどとは解されてはいない。

つまり、アウィールは、各々の契機によりその時を迎えると、エツェンムへと姿を変える*6

これが河間の地における、死というものの一般的な認識である。 

 

 

アウィールとエツェンム

アウィール awīlu とはアッカド語人間を意味する言葉である。河間の地における創造神話での人間は、大地から湧き出してきたり、粘土に神々の血肉を混ぜたり、あるいは神々の血から造られたりと、そのいくつかのタイプの起源が語られているが、共通しているのは、神々に代わって神々の為に働くものとして作られたというその存在理由である。この事は、彼らの築いた都市文明が、神殿を中心にして形成された事を考えれば、共同作業の必要性という集団的な要請と、人とはそのような社会的な枠組みの中に従事して生きていくものなのだという彼らの認識を、分かりやすく伝えているものであることが見て取れるだろう。

また、神話における血・肉・骨などは、それぞれ水、土、石のメタファーであるとも云い*7、そうであるとすれば、神々の血肉で作られたその材料ーすなわち始原としてのアルケーは、この場合、土や水という認識になる*8

 

他方、エツェンム eṭemmu も同じくアッカド語であるが、こちらは死者を表す言葉として用いられており、幽霊、亡霊、死霊、精霊などと訳されている。シュメル語のゲディム gedim に相当する語であるらしいのだが、このシュメル語は前2500年頃から知られるものの、前二千年紀中葉以降、ウドゥグ udug /ウトゥック utukku (魔物の一種)と混同されるようになり、超自然的な存在として意識されるようになっていったと云う*9

このエツェンムなるものは、夢の中や白昼の幻影として文書に現れ*10、「家族のエツェンム」、「彷徨うエツェンム」、「エツェンムを蘇らせる」、「エツェンムによる誓い」などの表現をとる*11が、アトラ・ハシースにおいては、神々が人間を作る際に犠牲として捧げられた神の肉(šîru)から立ち現れてくるものである。

 

その一節を見てみよう。以下は、アトラ・ハシース叙事詩の208-217行、223-230行に該当する*12

 一柱の神を屠らせましょう。

 神々は浸礼によって浄められるでしょう。

 彼の血と肉で ina širišu u damišu

 ニントゥに粘土と混ぜ合わさせましょう。

 神と人間は

 混ぜ合わされましょう。粘土と共に。

 絶えることなくわれらは太鼓の音を聞きましょうぞ。

 神の肉からエツェンムを現れ出させよう。ina šīr ili eṭemmu libiši

 それは生きているしるしとして生き物に知らされよう。

 決して忘れ去られることのないようにエツェンムを現しめよう。aššu la muššî eṭemmu

 …知性に長ける者、

 彼らは彼らの集会で屠った。

 彼らの肉と血に ina širiū u damišu

 ニントゥは粘土を混ぜた。

 絶えることなく、彼らは〔太鼓の音を聞いた。〕

 神々の肉から〔死霊が現れた。〕ina šir ili eṭ

 それは生きているしるしとして生き物に〔知らされた。〕

 決して忘れ去られることのないためにエツェンムが〔現れた。〕aššu la muššî eṭemmu

ここにおいて、知性ある神の血肉人間の材料とされており、人間の知性が神的なものとのつながりの中で理解されている事、それはつまり、神々の指示を聞き分ける能力知性として認識している事、そしてまた生きている時には鼓動*13がその存在を示し、死した後にはエツェンムとなって存在を思い出させるという人の在り様が示されている。

この場面はまだ人間を作成する前の、材料の仕込みの段階の話であり、その材料となる血肉、知性、心臓、エツェンムが用意されている事から、エツェンムをその存在形式を形作り、肉体を喪失した後にも残る、輪郭のないぼんやりとした原核のようなものと、見れなくもない。しかし、この河間の地のこの段階で、そこまで踏み込んで考えていたと見てよいかはまた別の問題であるだろう。 

 

 

以上から、アウィールは死ぬとエツェンムとなるが、エツェンムはやその他の自身の内なる映像として、あるいははっきりとした輪郭はもたずに現れる事、そして、エツェンムと知性が人に備わっているのは犠牲となった神と混じり合ったためであり、知性とは神々の言葉を聞き分ける事、つまりその司る世界の運行あるいは物事の仕組みを知って、すべき事を知る能力と解されていた事が知れる。そしてその事はーつまり、世界についての理解は、神話という形式をとって、当時の人々に共有されていた事がうかがえる。

 

さて、死後の継続を想定するならば、彼らのための場所というものもまた必要となる。死んだ者たちの使っていた場所を彼らの為に譲って、余所へと移る文化もつ地域もあるが、河間の地ではどうであっただろうか。次回は、彼らの抱いていた死後の世界のイメージから、その世界観の全体像について見る予定である。

 

 

 

*1:桑原は宗教儀礼に動物犠牲は欠かせないとし、神々に捧げられるその血は生命を象徴していると云う(創世神話の系譜(3)p.187)。また、血による浄めの事例としてマリの浸礼儀式を挙げている(アトラ・ハシース叙事詩(2)注5、p.31)。マリにおける動物犠牲についてはボテロの『メソポタミア』にも言及がある(本稿注3を参照)。時代は下るがホメーロスにも犠牲獣の血に群がる亡者たちの描写があり、血が生命力ないし活力の源と認識されている事がうかがえる(『オデュッセイア』第十歌、23-50行)。

*2:『アトラ・ハーシス』では犠牲として捧げられた知性ある神の血肉から、『エヌマ・エリシュ』ではキングーの血から、『人間の創造』ではアッラの血から人は生まれた。

*3:J・ボテロ『メソポタミア』pp.409-410。

*4:通常、霊あるいは魂と訳される πνεῦμα だが、元は動詞 πνέω 吹くに由来し、ストラボンが洞窟内の亀裂から立ち上がる霊が神憑りを起こしたと報告しているように、ガスや煙をも意味する。この語はまたラテン語の spiritus に対応し、こちらも目に見えるはっきりとした輪郭は伴わないが、中空に潜んで何らかの作用をもたらす存在として把握される。尚、河間の地において天と地を結ぶ空間としての中空の支配者は神々の王エンリルであり、その意味するところは主なる風、大気、中空である。

*5:J・R・ヘイル、J・Z・デ・ボーア、J・P・チャントン、H.A・スピラー「デルフォイ神託の秘密」別冊日経サイエンス古代文明の輝き』pp.24-31、2015年。彼らの調査により、アポロンの神殿がトランス状態を引き起こすガスの噴出口の上に築かれていた事が確認されている。

*6:J・ボテロ『最古の宗教』p.174。

*7:「人間を含む万物が水と地からなり、それらを源とするという考え方は、素朴で広く流布していたものである。肉と骨は土と石に、血は水に対比されるのであろう」G・S・カーク、J・E・レイヴン、M・スコフィールド『ソクラテス以前の哲学者たち』第二版、p.229、内田勝利、木原志乃、國方栄二、三浦要、丸橋裕訳、京都大学出版会、2011年。そのように述べてカークらは『イリアス』第七歌99行の「お前たちはみな、水と土に帰るがいい」を引く。

*8:別途、触れる予定であるが、エヌマ・エリシュにおいて世界ーここでは人間活動の舞台となる大地という意味でだがーはティアマト(海)の死骸(肉)から造られ、人間はキングーの血から造られる。この二柱の関係は曖昧であるが、キングーがティアマトの子であるならば人は結局、大地から生まれていると言えるし、ティアマト自身が海であるから水から生まれているとも言えるのである。

*9:J・ボテロ『メソポタミア』pp.411-412、pp.113。また、 udughul においては、udug, ala, galla とならんで悪霊として扱われている。Dina Katz “the image of the netherworld in the ancient sumerian sources” p.337, CDL PRESS,2003 を参照。

*10:J・ボテロ『メソポタミア』p.411。

*11:桑原俊一『アトラ・ハシース叙事詩(2)』注7、p.32、北海学園大学人文論集第44号、2009年。他にも、埋葬されない、供養する者のいない、水を注ぐ者のいない、死者への供物を捧げる者のいない、名前を呼ぶ者のいない、などの表現が付されたエツェンムがある(月本昭男『古代メソポタミアにおける死生観と死者儀礼』p.6西アジア考古学第8号、2007年)。

*12:桑原によると『筑摩世界体系1 古代オリエント集(1978)』所収の邦訳は英語版からの重訳であると云い、桑原による翻訳は「テキストから再構成されうる」アッカド語文も併記されている。尚、記載した一節は、死霊とあるのをエツェンムとし、また知性ある神の名を省略してある。

*13:「uppuは明らかに心臓の鼓動を意味する」桑原俊一『創世神話の系譜ー古代メソポタミアの資料から(3)ー』注33、p.196、北海学園大学人文論集第39号、2008年。